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親鸞会.NET|歎異抄解説書の比較対照

親鸞会では、毎月、『歎異抄』を解説された『歎異抄をひらく』について質疑応答をし、理解を深める座談会の御縁があります。
親鸞聖人といえば『歎異抄』といわれるほど有名ですが、実は『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではありません。
大変な名文で書かれてあり、最も多くの人に読まれている仏教書と言われています。
しかし、他力信心(真実信心)と、親鸞聖人の教えを、よく理解している人が読まないと、とんでもない読み間違いをするところが多いので、今日、学者でも誤解し、誤った教えが常識のように言われています。
『歎異抄』の内容を正しく理解するには、あくまで親鸞聖人の主著である『教行信証』によらなければなりません。
そこで親鸞会では、有名な『歎異抄』を親鸞聖人のお言葉を物差しとして、正しく理解するための座談会を設け、それをインターネット回線を利用して、全国で多くの方が座談会に参加しておられます。
親鸞会.NETには、機関誌に掲載された『歎異抄』解説書の比較対照の内容が載っています。
ここにその内容を簡単に紹介したいと思います。 詳しくは、リンクを通じて親鸞会.NETをご覧ください。


第1回:「ただ念仏して」の誤解を正す|親鸞会.NET

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』2章)

この「ただ」の誤解が甚だしい。
ここを「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「親鸞聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多いのです。
山崎龍明氏の『歎異抄』解説を引用し、いかに誤解されている箇所か、親鸞会.NETで解説しています。
ここを誤解すれば、親鸞聖人の教えを全部誤解することになります。 親鸞聖人が直に筆をもって書かれたお言葉で正確に理解しましょう。

>> 「ただ念仏して」の誤解を正す


第2回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 (『歎異抄』2章)

『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「阿弥陀仏の本願が、まことであるとするならば」と理解する人が意外に多くあります。親鸞会.NETで、この一文の誤解を取り上げ、山崎龍明氏や佐藤正英氏などの『歎異抄』解説を引用して、その誤りを正しています。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す


第3回:「急ぎ仏になりて」の誤解を正す|親鸞会.NET

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 (中略) しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき (『歎異抄』4章)

『歎異抄』のこの「急ぎ仏になりて」を「死に急ぐ」ことだと解釈する学者が少なくありません。 もし「浄土の慈悲」が、急いで仏になって衆生済度することであれば、仏になるのは死んで阿弥陀仏の浄土へ往ってからですから、早く死ななければ 「浄土の慈悲」はかなわないことになります。
親鸞聖人は、どのような御心でこのようなことをおっしゃったのでしょうか。正しい意味を親鸞会.NETで解説しています。

>> 「急ぎ仏になりて」の誤解を正す


第4回:歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」 (『歎異抄』1章)

真宗大谷派 (京都・東本願寺)の研究交流施設である親鸞仏教センターの出した『歎異抄』一章冒頭の解説に、 「人間の思慮を超えた阿弥陀仏の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して…」 とありました。
「往生をばとぐる」を「新しい生活を獲得できる」と解釈されているのですが、一体、「新しい生活」とはどんな“生活”なのでしょうか?
「往生」の正しい意味を理解されているのか疑問に思うところです。

>> 歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?


第5回:「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す|親鸞会.NET

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」 (『歎異抄』一章)

この一文にある「ただ信心を要とす」は一般にどのように解釈されているのでしょうか?

・阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。
・ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
・如来の本願に目覚めるこころ

など、解釈はバラバラで、意味もよくわかりません。 親鸞聖人のお言葉によって、この『歎異抄』第1章の意味は明らかになります。
親鸞会.NETで詳しく解説しています。

>> 「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す


第6回:「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落|親鸞会.NET

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)


「本願を信ぜんには」を、弥陀の本願を信じるには、と解釈する学者が多い。そのため、「他の善も要にあらず」をもって「善をする必要はない」という者までいる始末です。これでは、仏教を破壊することになります。
「本願を信ぜんには」とは、どのような意味なのか、親鸞会ではハッキリとお伝えしています。詳しくは、親鸞会.NETに詳しく書かれてあります。

>> 「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落


第7回:なぜ東大教授も誤読したのか|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第一章)


かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。
氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。
親鸞聖人の教えは漢字4字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。教授のみならず、多くの学者が誤読しているところでもあります。
親鸞会.NETで比較対照してみましょう。

>> なぜ東大教授も誤読したのか


第8回:『歎異抄』と二種深信|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第1章)


第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。
しかし、ここで親鸞聖人のおっしゃる「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なります。
親鸞聖人の信心は、「二種深信」です。二種深信とは、正確には機法二種一具の深信ということで、「機」と「法」の二つのことが同時に、疑いなくハッキリ知らされたことをいいます。
詳しくは親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』と二種深信


第9回:霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


『歎異抄』第1章の「摂取不捨の利益」とは、どんな意味なのか、他の『歎異抄』解説本と比較しながら、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的について、親鸞会.NETで知ることができます。

>> 霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする


第10回:弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異抄』第7章)


真宗大谷派(東本願寺)が、「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全10巻を刊行することになり、第1回として『親鸞の説法─「歎異抄」の世界』が発売されました。
そこに解説されている内容で、果たして『歎異抄』の真意が分かるのか、他の『歎異抄』解説本も引用しながら比較対照しています。
詳しくは、親鸞会.NETをごらんください。

>> 弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする


第11回:弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからない「時尅の極促」と説かれています。「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」なのです。「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされています。その「一念」ということについて、世の中の『歎異抄』解説本では、まったくふれられていません。親鸞会は常に、親鸞聖人の明らかにされた弥陀の一念の救いをハッキリとお伝えしています。

>> 弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする


第12回:『歎異抄』解説本を比較する意義|親鸞会.NET

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)


「決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい」との親鸞聖人のお言葉です。弥陀の救いは信心一つか、念仏か、について山崎龍明氏の解説本と比較したいと思います。

>> 『歎異抄』解説本を比較する意義


第13回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』2章)


『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と解釈する人が多くあります。
しかし、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします親鸞聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、親鸞聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
親鸞会.NETで詳しく解説を読んでみましょう。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意とは


第14回:親鸞聖人の教えは「二益法門」であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。この現当二益について、親鸞会.NETで詳しく知ることができます。

>> 親鸞聖人の教えは「二益法門」


第15回:『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会|親鸞会.NET

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
(『歎異抄』第9章)


ここは、実に多くの誤解された解釈がなされているところです。
唯円は2つのことを親鸞聖人にお尋ねしています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことの2つです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』も、石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』でも、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。本当にそうでしょうか?

佐藤正英著『歎異抄論註』では、親鸞聖人が本願どおりにならないことを嘆いた言葉だと解釈しています。これまたとんでもない解釈です。親鸞聖人の『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人の書かれた『教行信証』によらなければなりません。『教行信証』の親鸞聖人のお言葉を物差しとして、親鸞会では、この『歎異抄』の真意を明らかにしています。詳しくは、親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会


第16回:「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET

念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第2章)


この文章を、梅原猛氏の『誤解された歎異抄』では、
「念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります」
と解釈されています。

「総じてもって存知せざるなり」と『歎異抄』第2章にあるのを、文字どおり「全く知らない」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する人が多いのです。

同じ『歎異抄』の中に、親鸞聖人が、
「念仏のみぞまことにておわします」
とおっしゃっています。そんな矛盾したことを親鸞聖人がおっしゃるはずがありません。これは一体、どういうことなのか、親鸞会は、親鸞聖人の書かれたお言葉を物差しとして「総じてもって存知せざるなり」の真意を明らかにしています。

>> 「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET


第17回:「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉|親鸞会.NET

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(『歎異抄』第5章)


今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」です。「追善供養」を否定された親鸞聖人の『歎異抄』第5章は、日本仏教の全否定といえるでしょう。阿弥陀仏から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡くなった人に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でした。

世の中では葬式や法事、読経には功徳があると言って、現世や来世の幸福を祈祷します。しかし、どれだけ盛大な儀式をしても、念仏を称えても、亡くなった人は生前の自分の業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできないのです。親鸞会.NETで、ハッキリと知ることができます。

>> 「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉


第18回:鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨|親鸞会.NET

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
(『歎異抄』第2章)


鬼気迫る対峙が書かれてある章ですが、そのように解説している『歎異抄』解説本は、無いに等しいと言えるでしょう。殺気さえ覚えるほどの激しい親鸞聖人のお言葉が書かれてあるのが『歎異抄』第2章です。
それがどのように表れているのか、親鸞会.NETで明らかにされています。

>> 鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨


第19回:「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明|親鸞会.NET

善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ
(『歎異抄』後序)


私たちは、自分が正しいと思うことは「善」、正しくないと思えば「悪」と判断し、しかもその判断は正確だという大前提で生きています。ですから納得できることは実行しますが、納得できないと素直に従えません。善悪の判断が誤りなくできるなら、そもそも教えを聞く必要はありません。自力の強情我慢で「善悪は分かっている」「正しい判断力がある」とうぬぼれ、仏智を計らっている間は、阿弥陀仏の本願は聞けません。
「一切の自力の計らいを捨てよ」
親鸞聖人の重大なご教示が、『歎異抄をひらく』で鮮明にされています。詳しい解説は、親鸞会.NETでご覧ください。

>> 「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明



最も多くの人に読まれている仏教書『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人が直接、筆を執って書かれた『教行信証』によらなければなりません。親鸞会は、常に親鸞聖人のお言葉を提示し、その意味を丁寧に解説することによって、親鸞聖人の本当のみ教えを明らかにしています。

親鸞会.NET|「雑行を捨てよ」の真意

「浄土真宗では善を勧めないのに、親鸞会は善を勧めているから間違いだ」

と言ってきた人がありました。

お釈迦様は一生涯、善を勧められた方です。

親鸞聖人は、そのお釈迦様の教えを、「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、90年のご生涯、教えて続けていかれました。

なのに、どうして「浄土真宗では善を勧めない」という意見が出てきたのでしょうか?



ここには、「雑行」という言葉の誤解に、その大きな要因があります。

どんな誤解なのか、親鸞会.NETというサイトで、詳しく紹介しています。


「雑行を捨てよ」の真意(1) 親鸞会.NET

親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか、ないのか。
そのやりとりの発端について、その経緯が紹介されています。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(1)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET

善を勧める親鸞会に対し、「浄土真宗は諸善を勧めない」と相手は主張してきました。
諸善とは、仏教で教えられる諸の善のことです。
お金や物を施す、仏法を伝えるなどの行為は諸善です。
それを「勧めない」という相手の主張なのですが、どうしてこんな主張が…、と驚きます。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(2)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET

「浄土真宗は諸善を勧めない」と相手が主張してきた根拠を尋ねてみました。
すると、それは「雑行を捨てよ」である、との回答でした。
「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」を、同じ意味だと誤解しているのです。
そこで、「真宗は、諸善を勧めない」と言われるのであれば、「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねしました。
詳細は、本文をお読みください。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(3)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET

「雑行を捨てよ」と主張する相手の理解が、ここで明らかになります。
親鸞聖人の教えに善の勧めはない、という主張がどうして生まれるのか、相手の意見を聞いてみたいと思います。
次第に苦しい解説になっていることがわかります。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(4)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET

『その仏法上の〝諸善〟を、すべて〝雑行〟と言われるのならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、〝雑行〟と言われるのでしょうか』
との質問に、相手は、「それらは仏恩報謝の行です。往生のための行ではありません」と回答。
どのようなやりとりがなされているのか、聞いてみましょう。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(5)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET

「仏法を伝えるなどの往生行」と、「仏法を伝えるなどの報恩行」の行体は、別のものだとの相手の見解。
そこで、仏法を伝えるという同じ行為なのに、どこがどう違って、
「あれは往生行」
「これは報恩行」
と、分けられるか、その分かれ目を相手に尋ねます。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(6)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(7) 親鸞会.NET

仏法を伝える行為が、往生行となるか、報恩行となるか、その分かれ目を尋ねたところ、「真宗では信前・信後で変わります」との回答。
さらに、「仏法を伝えるなどの往生行諸善雑行と、報恩行とは、全く別物で、行体は同じではありません」との回答もありました。
そうなると、信前・信後で、われわれの行為のどこが、どう変わるのか。
他力の信心を獲る前と獲た後と、仏法を伝えるなどの行為自体、変わるのか、変わらぬのか。
ここが是非とも知りたくなるところです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(7)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(8) 親鸞会.NET

「雑行を捨てよ」ということを、「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解している人が浄土真宗には大変多くあります。
「諸善」を「雑行」と嫌われ、捨てよと言われる真意を知ることが大切です。

ではなぜ、
「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよ、と言われるのでしょうか。
それは、「諸善」を行う心がけが悪いからです。その悪い心とは、「往生の役に立てようとする心」です。
「雑行」とは、その悪い心で行う諸善のことをいいます。

「諸善」が悪いはずはなく、それをやる心がけが悪いから、雑行とけなされ捨てよ、と言われるのであって、諸善そのものを捨てよ、やめよ、ということではありません。

「雑行」も「諸善」も、その行体は変わりませんが、「往生の役に立てようとする自力の心でやる諸善」は「雑行」と嫌われ「捨てよ」と言われるのです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(8)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET

「雑行」の意味が明らかになり、再度、相手に「諸善と雑行は同じことですか」と確認するも、それには答えがありませんでした。
回答に行き詰まった原因は、「諸善」と「雑行」の違いが分からず、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」と間違われたところにありました。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(9)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(10) 親鸞会.NET

親鸞聖人の教えでは、「雑行」とは、だんだんに捨たるものでもなければ、少しずつ無くなるものでもありません。
弥陀に救われた一瞬に捨たるものです。
真宗で「雑行」とは、「往生の役に立てようとする自力の心でする諸善」を言うのですから、雑行が捨たったというのは、「往生の役に立てようとする自力の心」が捨たったことであり、無くなったことを言うのです。
「諸善を捨てる」ことでもなければ、「諸善を止める」ことでもありません。
「雑行を捨てて本願に帰した」人ならば、明らかに体験することです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(10)を読む



「雑行を捨てよ」が大変誤解されています。親鸞聖人の教えを正しく知る上で、極めて大切なことですから、よくよく学ばなければなりません。
親鸞会発行の『顕正新聞』に、「雑行を捨てよ」の意味を、わかりやすくマンガで解説したものを、このブログにも掲載しています。
下記のリンクからご覧ください。

>> マンガでわかる「雑行を捨てよ」

親鸞会.NET|法子と朋美の親鸞会講座

富山県射水市にある浄土真宗親鸞会館には、広さ二千畳の講堂があり、そこでは、毎月、法話や座談会が開かれています。

二千畳」と聞いても、ちょっとピンときませんし、どんなところかもわかりません。

そこで、親鸞会のサイトである「親鸞会.NET」では、その二千畳の講堂について、詳しく解説されています。

法子さんと朋美さんの二人が、わかりやすく教えてくれますよ。

どんな内容を紹介してくれるのか、簡単にご案内しておきましょう。

第1回 親鸞会館へようこそ ~二千畳の大講堂~

昭和63年に完成した親鸞会の親鸞会館本館の講堂が、広さ520畳でした。
それから参詣者が増加し続け、とても収容しきれなくなり、一堂に会して聞法できる二千畳の講堂が平成16年に完成しました。
東西本願寺がスッポリ入ってしまう大きさです。
その二千畳の目的は一つ。親鸞聖人の教えていかれたことを聞かせていただくことです。
帰命無量寿如来 南無不可思議光」と聞けば浄土真宗の方ならご存知の方も多いでしょう。
そうです、あの有名な『正信偈』ですね。
親鸞聖人の90年のご生涯、教えていかれたことが、すべて収まっているのが『正信偈』です。
ところが、漢字ばかりで書かれてあるため、皆さんおっしゃることは、「意味がわからない」。
せっかく朝晩、御仏壇の前で拝読していても、意味がわからないことでは、もったいないことです。
そこで、毎月、親鸞会では、この二千畳の講堂で法話が開かれ、『正信偈』の意味が解説されています。

>> 親鸞会.NET|親鸞会館へようこそ ~二千畳の大講堂~


第2回 音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その1)

親鸞会で、毎月、法話が開かれ、二千畳に大勢の人が集まると聞くと、気になる一つは音響のこと。
そんなに広い会場だと、音が聞こえなかったり、反響して聞きにくかったりしないのでしょうか。
しかし、そんな心配はご無用。
仏法を聞かせていただく一つが目的で建てられた二千畳ですから、音響のことは最重視して設計されています。
天井の高さが最大12メートル、奥行きが100メートルもある会場で、どうしてどこに座ってもスッキリハッキリ聞こえるのか。
その秘密とは?

>> 親鸞会.NET|音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その1)


第3回 音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その2)

その1では、平面スピーカーのことを紹介しました。
親鸞会の二千畳に採用した平面スピーカーのすごさは、二千畳のどこに座っても、音がハッキリ聞こえること。
音が拡散しないので、振動がまっすぐに伝わって、スピーカーから離れても、音量が弱まらないのが特長です。
法子さんの説明に耳を傾けてみましょう。

>> 親鸞会.NET|音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その2)


第4回 音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その3)

親鸞会の二千畳で、平面スピーカーの威力が発揮されています。
この平面スピーカーは、ハウリングも起こしません。
「仏法は聴聞に極まる」と教えられますから、聞法最優先で環境に配慮してあるのが二千畳なのです。

>> 親鸞会.NET|音は平面スピーカーでスッキリ聞こえるよ!(その3)


第5回 会場のいちばん後ろからでもバッチリ見える大映像(その1)

親鸞会の二千畳の講堂は、何と言っても広い!
長さがおよそ100メートルもあるから、一番後ろから演壇に立つ人を見ると、本当に小さい。
法話の時は、とても黒板の文字も見えないし、ちゃんと理解できないのではないか、と不安になります。
でも、心配はいりません。
前方に、畳30枚分の大きさの大映像があるので、一番後ろからもハッキリ見えます。
しかも、画面は今はやりのLED!
とっても鮮明で、長時間見ていても目が疲れないんです。
詳しく紹介されているので、ぜひ、法子さんの解説を聞いてみてください!

>> 親鸞会.NET|会場のいちばん後ろからでもバッチリ見える大映像(その1)


第5回 会場のいちばん後ろからでもバッチリ見える大映像(その2)

親鸞会の二千畳での法話は、午前、午後と続けてのご縁です。
長時間、映像を眺めていても疲れないような映像装置は、当時は、まだ開発段階。
LEDが良いとの結論は出てものの、問題点がいろいろとありました。
さて、聞法に最適のLED映像装置は見つかったのでしょうか?
気になる経緯が、紹介されています。

>> 親鸞会.NET|会場のいちばん後ろからでもバッチリ見える大映像(その2)

親鸞会.NETガイド

親鸞会の情報をお届けするポータルサイト『親鸞会.NET』に掲載されている情報を、ここでカテゴリー別にご紹介しましょう。

親鸞会.NET


◆親鸞会 仏教講座

親鸞会では、親鸞聖人の教えをわかりやすく解説しています。親鸞会.NETで紹介されているカテゴリーを、いくつかの話題をピックアップしてご案内します。
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◆法子と朋美の親鸞会講座

浄土真宗親鸞会のネット案内役の法子が、朋美さんと一緒に、富山県射水市にある浄土真宗親鸞会の親鸞会館を案内していきます。
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◆歎異抄に魅せられた人々

『歎異抄』は、作家、哲学者、右翼の活動家から左翼の思想家まで、最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭と称されています。
“一流”といわれる人たちが、歎異抄をどう語っているのか、シリーズで紹介しています。
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◆歎異抄解説書の比較対照

高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』が、親鸞聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の歎異抄解釈の間違いや曖昧さをどのように正され、『歎異抄』の真意をひらかれているか、比較しています。
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◆「雑行を捨てよ」の真意

《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
ネット上で、浄土真宗の重要な教えについての論争を解説。
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◆親鸞会の勉強会に行ってみよう

親鸞会の勉強会には、どうやって参加したらいいんですか?」
という皆さんからのご質問に、イラストでお答えします。
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親鸞会.NET|歎異抄に魅せられた人々

親鸞会.NETに掲載された「歎異抄に魅せられた人々」について紹介しましょう。

吉川英治と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「歎異抄 旅に持ちきて 虫の声」の句を残した吉川英治は、親鸞聖人の大ファンとして知られています。初めて書いた小説が『親鸞記』であり、40代になって、再び小説『親鸞』を書いています。親鸞会.NETに詳しく載っていますので、ぜひご覧ください。

司馬遼太郎と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね」と『歎異抄』のことを語ったのは、有名作家の司馬遼太郎です。
「無人島に1冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」とまで言い切った司馬遼太郎の『歎異抄』への思いが、親鸞会.NETで紹介されています。

齋藤孝と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

『声に出して読みたい日本語 音読テキストシリーズ』第3弾に齋藤氏は『歎異抄』を選びました。その理由も、語られています。詳しくは、親鸞会.NETをご覧ください。

倉田百三と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

フランスのノーベル賞作家であるロマン・ロランから「現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでも、これ以上純粋なものを私は知らない」と激賞されたのが親鸞聖人を題材に書いた『出家とその弟子』です。倉田百三の『歎異抄』への思いを親鸞会.NETで聞いてみましょう。

武田鉄矢と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

直木賞作家、東野圭吾の『白夜行』がドラマ化され、笹垣という刑事役を演じた武田鉄矢氏が何度も『歎異抄』の言葉を口ずさむ場面があります。原作にない『歎異抄』の言葉を、武田鉄矢氏は、なぜ入れたのでしょうか。親鸞会.NETで分かります。

三木清と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる」と語ったのは、日本の三大哲学者の一人、三木清です。三木清の親鸞聖人への思いを、親鸞会.NETで聞いてみましょう。

野間宏と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「『歎異抄』は、幾度読み直しても、その度ごとに、新しいという感じを受ける、書物である」と語ったのは、作家の野間宏です。その『歎異抄』を理解するとき気をつけなければならないことがあると言ってます。それは何か、親鸞会.NETで紹介されています。

丹羽文雄と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

文学関係で文化勲章を受賞した人は20名ほどしかいませんが、丹羽文雄はその一人です。
丹羽文雄は親鸞聖人について、
「親鸞にめぐり会えたことは、一介の文学者としても、人間としても、生涯の喜びである」
と語っています。詳しくは親鸞会.NETで。

花岡大学と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「すくなくとも“真実に生きる道”を求めようとする人なら、わたしはまず何をおいても『歎異抄』を読んでもらいたいと思う」と語ったのは児童文学作家で有名な花岡大学である。親鸞会.NETでその詳しいことがわかります。

東条英機と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

「(花山)先生、いまは『正信偈』や『歎異鈔』を読ませてもらって喜んでおる」(巣鴨の仏間にて・東条英機)
「(妻)勝子へは、精神的打撃だろうが、仏の大慈悲をいただいて天寿をまっとうせよ。歎異抄の第一章は胸をつく」
とは東条英機の言葉です。A級戦犯として絞首刑となった東条英機ですが、巣鴨の刑務所で真剣に聞法したと言われます。親鸞会.NETにその経緯が紹介されています。

三國連太郎と『歎異抄』を親鸞会.NETでチェック

三國連太郎はこう言っています。
「私が一番感動するのは『教行信証』の冒頭の言葉です」
『教行信証』冒頭には、
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
とあります。これは、人類の苦悩の根元と解決の道を親鸞聖人が明示されたものです。
三國氏が親鸞聖人に傾倒したきっかけは何だったのでしょうか?親鸞会.NETで知ることができます。