カテゴリー : 親鸞学徒

詩吟でふれる親鸞聖人の教え|親鸞会check!

親鸞会の行事で、たびたび吟じられる「南無六字の城」と「往生の一路」の詩を紹介しています。

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「南無六字の城」 頼山陽

濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城


>> 「南無六字の城」の詩吟を聴く(詩の解説付)

この詩は、織田信長から石山本願寺を護り抜いた親鸞学徒の信仰の力に驚嘆して、頼山陽(1832年没)が詠んだものです。
頼山陽は、歴史書『日本外史』を編んだ、当時の日本最高の知識人です。

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「往生の一路」 法霖

往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化せん


>> 「往生の一路」の詩吟を聴く(詩の解説付)

徳川時代、法霖という真宗の碩学が臨終に詠んだものです。

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御縁のあるときに、詩を吟じてみてはいかがでしょう。
ぜひ、意味も説明できるようになりたいですね。

「往生の一路は平生に決す」法霖 臨終の詩|親鸞会


往生の一路は平生(へいぜい)に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡(れんげかいり)の楽を快(たの)しむに非ず
娑婆界(しゃばかい)に還来(げんらい)して群生(ぐんじょう)を化(け)せん

徳川時代、法霖(ほうりん)という浄土真宗の碩学(せきがく)が臨終に詠んだものです。
浄土真宗親鸞会発行の『高森顕徹先生 随行録』に学んでみましょう。

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江戸時代、真宗界一の学者がいた。
彼と法論して勝った者はない。

名は、法霖(ほうりん)。
能化(のうけ)といい、信心と教学の指導監督、一切の責任と権限を持っていた。

彼の遺した『往生の一路』の詩は有名である。

ある日、宗派の要職に当たる者が、病に倒れた。
回復の兆がないので、祈祷師を呼んで病気治しの祈願をした。

それを知るや法霖、
「親鸞聖人のみ教えを、ねじ曲げることは、断じて許されぬ。死んでお詫びをせよ!」
と、法霖もまた、自殺していった。

死守すべきは、親鸞聖人のみ教え。
命がけの信念を貫いた。

本願寺の現状を見る時、言葉もない。

(浄土真宗親鸞会発行 『高森顕徹先生 随行録』より)

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詩吟は、長崎吟詠会の会長で90歳になる前田龍瓊氏によるものです。



親鸞学徒の心意気|「南無六字の城」を吟ず


濃蹶(のうけつ)・峡顛(きょうてん)いずれか抗衝(こうしょう)せん
梵王(ぼんのう)ひとり降旌(こうせい)を樹(た)てず
豈(あに)図らんや右府(うふ)千軍の力
抜き難し南無六字の城

【意味】
美濃を制した斎藤道三(濃蹶)も、
甲斐の武田勝頼(峡顛)も、
あらがう術のなかった織田信長(右府)に、
本願寺の顕如上人(梵王)だけが、屈しなかった。
だれが予想したか、
あの織田信長の千軍の力でも攻め落とせなかったとは。
驚くべき南無六字の法城、石山本願寺。

江戸時代の儒学者である頼山陽の詩です。
石山戦争で信長の軍勢に屈しなかった浄土真宗の先達の心意気が詠われています。

詳しくは、浄土真宗親鸞会の公式ホームページに掲載されています。

詩吟は、長崎吟詠会の会長、90歳になる前田龍瓊氏によるものです。