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親鸞会の顕正新聞に連載「『ひらく』後 真実開顕へ刻む時」|親鸞会

高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の発刊から5年の月日が経過した。
最も多くの人に読まれている仏教書『歎異抄』は、これまで自由奔放な解釈が横行し、著者の意図に反して、親鸞聖人の教えを誤解させる結果を招いた。

『歎異抄をひらく』は、これまでの歎異抄解釈の誤りを、親鸞聖人の主著『教行信証』を物差しとして正した本である。

平成20年3月に発刊されて以降、それまで毎年、10冊以上出ていた『歎異抄』解説本がピタリと出なくなった。
それから5年、現在、23万部を突破し、名実ともに『歎異抄』解釈の決定版として、多くの人に親しまれている。

この5年の沈黙は何を意味するのか、親鸞会が発行する顕正新聞に、分かりやすく解説されている。

 

第1回:「地方のある住職会議で」の巻

『歎異抄をひらく』の発刊以降、『歎異抄』の解説書が1冊も出なくなって5年が経過しようとしている。いったい何が起きているのだろうか。地方で開かれている住職会議で、こんなことが問題になっている。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic01.htm

 

第2回:「地方のある住職会議で②」の巻

「誰でも彼でも念仏を称えることによって、本当の幸福を得て、お浄土に参らせていただく」という本願寺総長の説教は、称名正因の異安心。親鸞聖人のみ教えは「信心正因」であることは『教行信証』で明らかである。親鸞会では、常に「信心正因 称名報恩」の親鸞聖人のみ教えを、親鸞聖人のお言葉で明らかにしている。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic03.htm

 

第3回:「地方のある住職会議で③」の巻

“『歎異抄をひらく』には、親鸞聖人の書かれた『教行信証』をものさしに『歎異抄』の意味が解説されている。これによって、多く誤解されてきた『歎異抄』の文章が、正しく理解できるようになった。親鸞聖人のお言葉で教えを明らかにされた『歎異抄をひらく』への反論は、親鸞聖人への反論となるのである。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic05.htm

 

第4回:「親鸞聖人の歓喜の証言」の巻

阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人の歓喜の証言が、主著『教行信証』にハッキリと記されている。一念で鮮やかに救い摂ってくださるのが弥陀の救いなのである。阿弥陀仏の救いは「いつとはなし」というのは、親鸞聖人の教えではない。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic07.htm

 

第5回:「平生の一念でハッキリする」の巻

阿弥陀仏の救いは、「いつとはなし」というのは親鸞聖人の教えではない。平生の一念でハッキリすることを親鸞聖人は明快に教えておられる。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic09.htm

 

第6回:「断言できない親鸞聖人のお言葉はない」の巻

親鸞聖人の教えについて、「私はこう思う」「私はこう考える」と私見を平気で語る者がいる。親鸞聖人の教えはお聖教に明らかである。断言できない親鸞聖人の教えはないのである。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic11.htm

 

第7回:「怒濤の光輪」の巻

親鸞聖人のお言葉を提示し、その意味を懇切丁寧に解説されている『歎異抄をひらく』を読むことで、正しい親鸞聖人のみ教えを知ることができる。これまでの歎異抄解釈の誤りを正し、反論もなく5年が経過したことに深く、重い意味がある。

http://www.shinrankai.or.jp/b/kizamutoki/kizamu-comic13.htm

 

親鸞会では、全国各地で親鸞聖人の教えが分かる仏教講座を開催しています。有名な『歎異抄』や『正信偈』の意味を、講座で知ることが出来ます。詳しい日程や会場をお知りになりたい方は、親鸞会 公式ホームページの仏教講座の案内をご覧ください。

 

親鸞会の顕正新聞で楽しく学べる仏教の言葉「ほんまでっか」シリーズ

親鸞会の顕正新聞に「ほんまでっか」というちょっと変わったタイトルのコーナーがある。

関西弁でやりとりされる会話の中で、よく知られる仏教の言葉をとりあげ、正しい意味を解説する連載である。

平成24年3月からスタートした月2回の連載は、今月で14回を数える。

これまで取り上げられたテーマと、内容が全部読める親鸞会公式ホームページへのリンクを紹介しよう。

 

第1回:「往生」=「困った」?

「往生」という言葉は、世間でもよく用いられる仏教の言葉である。ところが、「往生」という言葉は、一般に「困った」とか「弱った」という意味で使われている。これは完全に誤用である。「往生」は仏教の言葉だから、その意味は、仏教によらなければならない。では、本来は、どんな意味を持つ言葉なのだろうか?なにわの夫婦の会話から学ぶことができます。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120301oujou.htm

 

第2回:袖触れ合うも多生の縁

「袖触れ合うも多生の縁」ということわざがある。その中の「多生の縁」とはどんなことなのだろう?「多少」ではなく「多生」と書かれている。幾度となく生まれ変わり死に変わり、果てしなく繰り返してきた過去を持つ私たちだから、多生なのだ。果てしない歴史を持つ私の生命が、人間に生まれてわずかであっても縁があったのは、「多生の縁」あってのことなのだよ、と教えられる。詳しくは、楽しいなにわの夫婦の会話で知ることが出来る。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120315tashounoen.htm

 

第3回:施しは幸せのタネ

「旦那」という言葉は、もともと仏教から出た言葉である。「おたくの旦那様は……」「うちの旦那はねぇ……」と、近所の井戸端会議でよく聞かれる。どんな由来があって、「旦那」という言葉が使われるようになったのだろうか?なにわの夫婦の会話で「旦那」の意味が分かります。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120401shiawasenotane.htm

 

 第4回:人間は煩悩の塊!?

「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませるもので、一人に108つあると説かれる。これを108の煩悩と言われる。108の煩悩の中でも、特に恐ろしいのが欲、怒り、愚痴の3つで、これを三毒の煩悩と言う。人間はこれら煩悩の塊といわれるのだが、どんなことなのか?高校生の2人が何やら会話をしているので聞いてみよう。

 

第5回:これも自因自果なんやろか

仏教の根幹は、因果の道理。私たちの運命は何によって決まるのか、お釈迦様が明らかにされた教えである。善因善果、悪因悪果、自因自果と説かれ、善い原因は善い結果を生み出す、悪い原因は悪い結果を引き起こす、自分が蒔いた種は、自分が刈り取らなければならない、ということだ。これはいつでもどこでも変わらぬ大宇宙の真理。しかし、悪いことが起きたときは、なかなか悪因悪果、自因自果とは思えないもの。なにわの夫婦の会話に学んでみよう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120501jiinjika.htm

 

第6回:流転輪廻って何? 

仏教に「流転輪廻(るてんりんね)」という言葉がある。輪廻とは、車がグルグルと際限なく回り続けるように、キリもキワもないことだ。仏教では、私たち人間の迷っている姿を表している言葉だ。いったい、どんなことなのか、なにわの寿司屋の主人と客の会話に学ぼう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120515rutenrinne.htm

 

第7回:一向専念ってなんでやねん

仏教の結論は、「一向専念無量寿仏」である。阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ、と教えられた言葉だ。仏教には、いろいろな仏や菩薩、神が説かれているが、なぜ阿弥陀仏一仏なのだろう?なにわの町内会の班長と隠居の会話に学んでみよう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120601ikkousennen.htm

 

第8回:後生ってほんまにあるの?

「死んだ後はない」という夫。しかし、友人の葬式では神妙な面持ちで「ご冥福をお祈りします」と言っていた。後生は本当にあるのか?ないのか?そこのところを、なにわの夫婦の会話に学んでみよう。

 

第9回:人生を楽しく渡す大船あり

「生きる=善いこと」が大前提だが、なぜそう言えるのだろうか?毎年、3万人以上の自殺者が出ている。大きな社会問題として、国会でも議論されているが、一向に解決に向かわない。社会保障や電話相談などを充実させることで、問題解決を図っているが、表面的な対策に過ぎない。根本にある「なぜ自殺はいけないのか?」に答えなければ、自殺問題の真の解決に向かって前進することはないだろう。なにわの先生と生徒の会話に学ぶ。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120701taisen.html

 

第10回: 『御文章』とはどんなもの

浄土真宗では、朝晩の勤行で、親鸞聖人の『正信偈』と蓮如上人の『御文章』を拝読する。蓮如上人は、今から約500年前、室町時代に活躍された方で、親鸞聖人の教えを、最も正確に、最も多くの人に伝えられた。蓮如上人の『御文章』とは、どのようなものか、なにわの夫婦の会話に学んでみよう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120715gobunsho.html

 

 第11回:「法泥棒」ではあかん!

昔から“法泥棒”と言って嫌われるのは、一体、どんなことなのか。なにわの夫婦の会話に学びます。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120801houdorobo.html

 

第12回:親鸞聖人のアニメはええなぁ

今日、世界の光と仰がれる親鸞聖人とはどんなお方だったのか?親鸞聖人のご生涯を分かりやすく描かれたアニメーションについてなにわの夫婦が会話をしています。聞いてみましょう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120815animation.html

 

第13回:仏法に明日はない 報恩講は必ず

浄土真宗で最も大きな行事が「報恩講(ほうおんこう)」です。親鸞聖人の御恩に報いる集まり、ということですが、どんな行事なのでしょうか?なにわのご隠居と善吉の会話に学びましょう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120915houonkou.html

 

第14回:私に私が分からん?

阿弥陀仏は本当にまします仏様なのか?それを問題にしている「私」とは何ものか、ハッキリしているだろうか?なにわの夫婦が、何やら話をしています。聞いてみましょう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20121101watashi.html

 

親鸞会で雑行の正しい意味が分かる

どうすれば阿弥陀仏の救いにあえるのか。信心決定できるのか。
親鸞聖人の教えを聞き求める人にとって、最も知りたいことです。

それに対する親鸞聖人のお答えは、「捨自帰他(自力を捨てて、他力に帰せよ)」以外にないことを、親鸞会では親鸞聖人の教えをもって、ハッキリとお示ししております。

これを自他力廃立(じたりきはいりゅう)といいます。

「廃立」とは「捨てもの」と「立てるもの」ということです。

覚如上人は、

「真宗の門においては幾度も廃立を先とせり」(改邪鈔)

と、親鸞聖人の教えは「廃立」であることを明らかにされています。

では何を捨てよ、と言われるのでしょうか。朝晩、親鸞学徒が拝読している『御文章』や『領解文』で蓮如上人は、

「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」

と雑行・雑修・自力の心だと繰り返されています。

「雑行・雑修・自力の心」が廃らなかったら、阿弥陀仏の救済にあずかることは絶対にできないからです。

雑行の本義は諸善万行です。
雑修は五正行(阿弥陀仏に向かっての、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五つの正しい行)、すなわち朝晩の勤行のことです。

善をしなかったら善い果報はきませんし、勤行は大いに励まなければならない行です。

なのに、なぜ「雑行・雑修」と嫌われ、「捨てよ」と言われているのでしょうか。

ここを親鸞会では、徹底して明らかにしております。

それは、偏に自力の心で行うからです。

ですから、「雑行・雑修を捨てよ」と言われるのは、諸善や五正行の勤行などをやめよ、捨てよ、ということではなく、「自力の心を捨てよ」ということなのです。

この自力の心が分からないから、「雑行を捨てよ」を「善を捨てよ」という意味だと誤解し、「親鸞聖人の教えに、善の勧めはない」「善を勧めるのは間違いだ」など、馬鹿げたことを言い出すのです。

他力を真実(真)、自力を方便(仮)とも教えられています。
真実が知らされなかったら、方便は絶対分からないように、自力の心は、他力に入らなかったら絶対に分かるものではありません。

阿弥陀仏に救い摂られた一念に、自力(仮)と他力(真)が同時にハッキリ知らされるのです。

「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)

親鸞聖人が断言されているように、真仮が分かっていないのは、いまだ救われていないからなのです。

親鸞会は、「方便など不要だ」「善を勧めるのは間違いだ」などという者たちのバカバカしい放言の誤りを指摘し、正しい親鸞聖人の教えを明示して、本当の仏教を明らかにお伝えしていくのみです。

このような親鸞聖人の教えについての誤解と、正しい意味を、インターネットで学ぶことができます。

浄土真宗親鸞会の公式ホームページでは、これまで幾度にもわたって雑行・雑修・自力の心について解説をして参りました。過去に掲載した親鸞会公式ホームページの記事を振り返ってみましょう。

>> 「雑行捨てよ」と「修善の勧め」|親鸞会 公式ホームページ

現今の浄土真宗崩落の惨状は、”雑行捨てよ” の教えを”善を捨てよ”と誤解したのが、大きな要因の一つであることは間違いありません。しかし、なによりも「雑行捨てよ」の正しい意味を教え切らなかった僧職の、重大な責任を指摘せざるをえないことが論じられています。

>> 「雑行」が分からぬのは なぜか|親鸞会 公式ホームページ

後生の一大事が分からなければ、〝後生助かりたい〟とも思わないし、それを助ける阿弥陀仏の本願も分かるはずがありません。これでは全く仏法が始まらないから、阿弥陀仏の本願に遇わせるのが目的だったお釈迦様は、45年間の説法ほとんどを、後生の一大事を知らせるためになされたのです。

>> 雑行雑修自力の心とはどんなものか|親鸞会 公式ホームページ

浄土真宗で絶対捨てねば助からぬと言われる「雑行・雑修・自力の心」とは、どんなものか、高森顕徹先生が答えて下されたことを紹介しております。

>> 後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない|親鸞会 公式ホームページ

蓮如上人も「雑行(ぞうぎょう)を捨てよ」とは、書かれているが「信仰が進むから、善をしなさい」とは、書いておられないのではないか。だから、善を勧める親鸞会は間違いであり、善をすれば助かるという諸行往生だ。このように親鸞会に対して言ってくる人がありますが、果たして正しい非難と言えるでしょうか?「善を勧めるのは間違い」という人たちの誤りがどこにあるのか、親鸞会は徹底して明らかにします。

>> 雑行が廃らぬ|親鸞会 公式ホームページ

後生助かりたいの思いもなく、真剣に諸善もせず、阿弥陀仏一仏にも向かってない人に、雑行を棄てよと言っても、分からないのが当然です。雑行と言われるものが、問題になるところまで進んでいないからです。では、なぜ真剣に諸善もせず、阿弥陀仏一仏にも向かないのかと言えば、後生の一大事が問題になっていないからである。親鸞会では、後生の一大事を詳しく解説し、救いの道を親鸞聖人のお言葉で明らかにお示ししています。

>> 寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし|親鸞会 公式ホームページ

なぜ現今の浄土真宗の人達は後生が問題にならず諸善に向かわないのか。それは、三世因果の道理が教えられていないからです。先ず、お釈迦様が因果の道理を説かれ、廃悪修善を徹底されたのはそのためでした。しかもそれはお釈迦様の勝手な判断でなく、本師本仏の阿弥陀仏が誓われた救済の要門だからなのです



親鸞会.NETでは、“「雑行を捨てよ」の真意”と題して、10回にわたって浄土真宗でいわれる雑行の正しい意味を明らかにしています。
親鸞会.NETに掲載された内容を、簡単にまとめましたので、下記のページをご覧ください。

>> 親鸞会.NET|「雑行を捨てよ」の真意 を読む



親鸞会発行の顕正新聞では、親鸞聖人の教えを学ぶ皆さんに、正しく教えを知っていただくために、親鸞聖人のお言葉を分かりやすく解説しています。
親鸞聖人の教えを理解するキーワードといわれる「雑行」の意味が、誰にでも分かるマンガで連載されたことがありました。
この「親鸞会の仏教講座 ひまわり日記でこんにちは」にも載せてありますので、ぜひご覧ください。

>> 親鸞会|雑行・雑修・自力の心|マンガ解説|もくじ

親鸞会.NET|歎異抄解説書の比較対照

親鸞会では、毎月、『歎異抄』を解説された『歎異抄をひらく』について質疑応答をし、理解を深める座談会の御縁があります。
親鸞聖人といえば『歎異抄』といわれるほど有名ですが、実は『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではありません。
大変な名文で書かれてあり、最も多くの人に読まれている仏教書と言われています。
しかし、他力信心(真実信心)と、親鸞聖人の教えを、よく理解している人が読まないと、とんでもない読み間違いをするところが多いので、今日、学者でも誤解し、誤った教えが常識のように言われています。
『歎異抄』の内容を正しく理解するには、あくまで親鸞聖人の主著である『教行信証』によらなければなりません。
そこで親鸞会では、有名な『歎異抄』を親鸞聖人のお言葉を物差しとして、正しく理解するための座談会を設け、それをインターネット回線を利用して、全国で多くの方が座談会に参加しておられます。
親鸞会.NETには、機関誌に掲載された『歎異抄』解説書の比較対照の内容が載っています。
ここにその内容を簡単に紹介したいと思います。 詳しくは、リンクを通じて親鸞会.NETをご覧ください。


第1回:「ただ念仏して」の誤解を正す|親鸞会.NET

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』2章)

この「ただ」の誤解が甚だしい。
ここを「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「親鸞聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多いのです。
山崎龍明氏の『歎異抄』解説を引用し、いかに誤解されている箇所か、親鸞会.NETで解説しています。
ここを誤解すれば、親鸞聖人の教えを全部誤解することになります。 親鸞聖人が直に筆をもって書かれたお言葉で正確に理解しましょう。

>> 「ただ念仏して」の誤解を正す


第2回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 (『歎異抄』2章)

『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「阿弥陀仏の本願が、まことであるとするならば」と理解する人が意外に多くあります。親鸞会.NETで、この一文の誤解を取り上げ、山崎龍明氏や佐藤正英氏などの『歎異抄』解説を引用して、その誤りを正しています。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す


第3回:「急ぎ仏になりて」の誤解を正す|親鸞会.NET

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 (中略) しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき (『歎異抄』4章)

『歎異抄』のこの「急ぎ仏になりて」を「死に急ぐ」ことだと解釈する学者が少なくありません。 もし「浄土の慈悲」が、急いで仏になって衆生済度することであれば、仏になるのは死んで阿弥陀仏の浄土へ往ってからですから、早く死ななければ 「浄土の慈悲」はかなわないことになります。
親鸞聖人は、どのような御心でこのようなことをおっしゃったのでしょうか。正しい意味を親鸞会.NETで解説しています。

>> 「急ぎ仏になりて」の誤解を正す


第4回:歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」 (『歎異抄』1章)

真宗大谷派 (京都・東本願寺)の研究交流施設である親鸞仏教センターの出した『歎異抄』一章冒頭の解説に、 「人間の思慮を超えた阿弥陀仏の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して…」 とありました。
「往生をばとぐる」を「新しい生活を獲得できる」と解釈されているのですが、一体、「新しい生活」とはどんな“生活”なのでしょうか?
「往生」の正しい意味を理解されているのか疑問に思うところです。

>> 歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?


第5回:「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す|親鸞会.NET

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」 (『歎異抄』一章)

この一文にある「ただ信心を要とす」は一般にどのように解釈されているのでしょうか?

・阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。
・ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
・如来の本願に目覚めるこころ

など、解釈はバラバラで、意味もよくわかりません。 親鸞聖人のお言葉によって、この『歎異抄』第1章の意味は明らかになります。
親鸞会.NETで詳しく解説しています。

>> 「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す


第6回:「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落|親鸞会.NET

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)


「本願を信ぜんには」を、弥陀の本願を信じるには、と解釈する学者が多い。そのため、「他の善も要にあらず」をもって「善をする必要はない」という者までいる始末です。これでは、仏教を破壊することになります。
「本願を信ぜんには」とは、どのような意味なのか、親鸞会ではハッキリとお伝えしています。詳しくは、親鸞会.NETに詳しく書かれてあります。

>> 「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落


第7回:なぜ東大教授も誤読したのか|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第一章)


かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。
氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。
親鸞聖人の教えは漢字4字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。教授のみならず、多くの学者が誤読しているところでもあります。
親鸞会.NETで比較対照してみましょう。

>> なぜ東大教授も誤読したのか


第8回:『歎異抄』と二種深信|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第1章)


第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。
しかし、ここで親鸞聖人のおっしゃる「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なります。
親鸞聖人の信心は、「二種深信」です。二種深信とは、正確には機法二種一具の深信ということで、「機」と「法」の二つのことが同時に、疑いなくハッキリ知らされたことをいいます。
詳しくは親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』と二種深信


第9回:霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


『歎異抄』第1章の「摂取不捨の利益」とは、どんな意味なのか、他の『歎異抄』解説本と比較しながら、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的について、親鸞会.NETで知ることができます。

>> 霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする


第10回:弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異抄』第7章)


真宗大谷派(東本願寺)が、「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全10巻を刊行することになり、第1回として『親鸞の説法─「歎異抄」の世界』が発売されました。
そこに解説されている内容で、果たして『歎異抄』の真意が分かるのか、他の『歎異抄』解説本も引用しながら比較対照しています。
詳しくは、親鸞会.NETをごらんください。

>> 弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする


第11回:弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからない「時尅の極促」と説かれています。「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」なのです。「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされています。その「一念」ということについて、世の中の『歎異抄』解説本では、まったくふれられていません。親鸞会は常に、親鸞聖人の明らかにされた弥陀の一念の救いをハッキリとお伝えしています。

>> 弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする


第12回:『歎異抄』解説本を比較する意義|親鸞会.NET

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)


「決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい」との親鸞聖人のお言葉です。弥陀の救いは信心一つか、念仏か、について山崎龍明氏の解説本と比較したいと思います。

>> 『歎異抄』解説本を比較する意義


第13回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』2章)


『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と解釈する人が多くあります。
しかし、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします親鸞聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、親鸞聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
親鸞会.NETで詳しく解説を読んでみましょう。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意とは


第14回:親鸞聖人の教えは「二益法門」であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。この現当二益について、親鸞会.NETで詳しく知ることができます。

>> 親鸞聖人の教えは「二益法門」


第15回:『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会|親鸞会.NET

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
(『歎異抄』第9章)


ここは、実に多くの誤解された解釈がなされているところです。
唯円は2つのことを親鸞聖人にお尋ねしています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことの2つです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』も、石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』でも、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。本当にそうでしょうか?

佐藤正英著『歎異抄論註』では、親鸞聖人が本願どおりにならないことを嘆いた言葉だと解釈しています。これまたとんでもない解釈です。親鸞聖人の『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人の書かれた『教行信証』によらなければなりません。『教行信証』の親鸞聖人のお言葉を物差しとして、親鸞会では、この『歎異抄』の真意を明らかにしています。詳しくは、親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会


第16回:「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET

念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第2章)


この文章を、梅原猛氏の『誤解された歎異抄』では、
「念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります」
と解釈されています。

「総じてもって存知せざるなり」と『歎異抄』第2章にあるのを、文字どおり「全く知らない」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する人が多いのです。

同じ『歎異抄』の中に、親鸞聖人が、
「念仏のみぞまことにておわします」
とおっしゃっています。そんな矛盾したことを親鸞聖人がおっしゃるはずがありません。これは一体、どういうことなのか、親鸞会は、親鸞聖人の書かれたお言葉を物差しとして「総じてもって存知せざるなり」の真意を明らかにしています。

>> 「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET


第17回:「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉|親鸞会.NET

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(『歎異抄』第5章)


今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」です。「追善供養」を否定された親鸞聖人の『歎異抄』第5章は、日本仏教の全否定といえるでしょう。阿弥陀仏から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡くなった人に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でした。

世の中では葬式や法事、読経には功徳があると言って、現世や来世の幸福を祈祷します。しかし、どれだけ盛大な儀式をしても、念仏を称えても、亡くなった人は生前の自分の業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできないのです。親鸞会.NETで、ハッキリと知ることができます。

>> 「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉


第18回:鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨|親鸞会.NET

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
(『歎異抄』第2章)


鬼気迫る対峙が書かれてある章ですが、そのように解説している『歎異抄』解説本は、無いに等しいと言えるでしょう。殺気さえ覚えるほどの激しい親鸞聖人のお言葉が書かれてあるのが『歎異抄』第2章です。
それがどのように表れているのか、親鸞会.NETで明らかにされています。

>> 鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨


第19回:「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明|親鸞会.NET

善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ
(『歎異抄』後序)


私たちは、自分が正しいと思うことは「善」、正しくないと思えば「悪」と判断し、しかもその判断は正確だという大前提で生きています。ですから納得できることは実行しますが、納得できないと素直に従えません。善悪の判断が誤りなくできるなら、そもそも教えを聞く必要はありません。自力の強情我慢で「善悪は分かっている」「正しい判断力がある」とうぬぼれ、仏智を計らっている間は、阿弥陀仏の本願は聞けません。
「一切の自力の計らいを捨てよ」
親鸞聖人の重大なご教示が、『歎異抄をひらく』で鮮明にされています。詳しい解説は、親鸞会.NETでご覧ください。

>> 「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明



最も多くの人に読まれている仏教書『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人が直接、筆を執って書かれた『教行信証』によらなければなりません。親鸞会は、常に親鸞聖人のお言葉を提示し、その意味を丁寧に解説することによって、親鸞聖人の本当のみ教えを明らかにしています。

親鸞会.NET|「雑行を捨てよ」の真意

「浄土真宗では善を勧めないのに、親鸞会は善を勧めているから間違いだ」

と言ってきた人がありました。

お釈迦様は一生涯、善を勧められた方です。

親鸞聖人は、そのお釈迦様の教えを、「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、90年のご生涯、教えて続けていかれました。

なのに、どうして「浄土真宗では善を勧めない」という意見が出てきたのでしょうか?



ここには、「雑行」という言葉の誤解に、その大きな要因があります。

どんな誤解なのか、親鸞会.NETというサイトで、詳しく紹介しています。


「雑行を捨てよ」の真意(1) 親鸞会.NET

親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか、ないのか。
そのやりとりの発端について、その経緯が紹介されています。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(1)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET

善を勧める親鸞会に対し、「浄土真宗は諸善を勧めない」と相手は主張してきました。
諸善とは、仏教で教えられる諸の善のことです。
お金や物を施す、仏法を伝えるなどの行為は諸善です。
それを「勧めない」という相手の主張なのですが、どうしてこんな主張が…、と驚きます。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(2)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET

「浄土真宗は諸善を勧めない」と相手が主張してきた根拠を尋ねてみました。
すると、それは「雑行を捨てよ」である、との回答でした。
「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」を、同じ意味だと誤解しているのです。
そこで、「真宗は、諸善を勧めない」と言われるのであれば、「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねしました。
詳細は、本文をお読みください。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(3)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET

「雑行を捨てよ」と主張する相手の理解が、ここで明らかになります。
親鸞聖人の教えに善の勧めはない、という主張がどうして生まれるのか、相手の意見を聞いてみたいと思います。
次第に苦しい解説になっていることがわかります。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(4)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET

『その仏法上の〝諸善〟を、すべて〝雑行〟と言われるのならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、〝雑行〟と言われるのでしょうか』
との質問に、相手は、「それらは仏恩報謝の行です。往生のための行ではありません」と回答。
どのようなやりとりがなされているのか、聞いてみましょう。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(5)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET

「仏法を伝えるなどの往生行」と、「仏法を伝えるなどの報恩行」の行体は、別のものだとの相手の見解。
そこで、仏法を伝えるという同じ行為なのに、どこがどう違って、
「あれは往生行」
「これは報恩行」
と、分けられるか、その分かれ目を相手に尋ねます。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(6)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(7) 親鸞会.NET

仏法を伝える行為が、往生行となるか、報恩行となるか、その分かれ目を尋ねたところ、「真宗では信前・信後で変わります」との回答。
さらに、「仏法を伝えるなどの往生行諸善雑行と、報恩行とは、全く別物で、行体は同じではありません」との回答もありました。
そうなると、信前・信後で、われわれの行為のどこが、どう変わるのか。
他力の信心を獲る前と獲た後と、仏法を伝えるなどの行為自体、変わるのか、変わらぬのか。
ここが是非とも知りたくなるところです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(7)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(8) 親鸞会.NET

「雑行を捨てよ」ということを、「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解している人が浄土真宗には大変多くあります。
「諸善」を「雑行」と嫌われ、捨てよと言われる真意を知ることが大切です。

ではなぜ、
「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよ、と言われるのでしょうか。
それは、「諸善」を行う心がけが悪いからです。その悪い心とは、「往生の役に立てようとする心」です。
「雑行」とは、その悪い心で行う諸善のことをいいます。

「諸善」が悪いはずはなく、それをやる心がけが悪いから、雑行とけなされ捨てよ、と言われるのであって、諸善そのものを捨てよ、やめよ、ということではありません。

「雑行」も「諸善」も、その行体は変わりませんが、「往生の役に立てようとする自力の心でやる諸善」は「雑行」と嫌われ「捨てよ」と言われるのです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(8)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET

「雑行」の意味が明らかになり、再度、相手に「諸善と雑行は同じことですか」と確認するも、それには答えがありませんでした。
回答に行き詰まった原因は、「諸善」と「雑行」の違いが分からず、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」と間違われたところにありました。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(9)を読む


「雑行を捨てよ」の真意(10) 親鸞会.NET

親鸞聖人の教えでは、「雑行」とは、だんだんに捨たるものでもなければ、少しずつ無くなるものでもありません。
弥陀に救われた一瞬に捨たるものです。
真宗で「雑行」とは、「往生の役に立てようとする自力の心でする諸善」を言うのですから、雑行が捨たったというのは、「往生の役に立てようとする自力の心」が捨たったことであり、無くなったことを言うのです。
「諸善を捨てる」ことでもなければ、「諸善を止める」ことでもありません。
「雑行を捨てて本願に帰した」人ならば、明らかに体験することです。

>> 「雑行を捨てよ」の真意(10)を読む



「雑行を捨てよ」が大変誤解されています。親鸞聖人の教えを正しく知る上で、極めて大切なことですから、よくよく学ばなければなりません。
親鸞会発行の『顕正新聞』に、「雑行を捨てよ」の意味を、わかりやすくマンガで解説したものを、このブログにも掲載しています。
下記のリンクからご覧ください。

>> マンガでわかる「雑行を捨てよ」