親鸞会.NET|歎異抄解説書の比較対照

親鸞会では、毎月、『歎異抄』を解説された『歎異抄をひらく』について質疑応答をし、理解を深める座談会の御縁があります。
親鸞聖人といえば『歎異抄』といわれるほど有名ですが、実は『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではありません。
大変な名文で書かれてあり、最も多くの人に読まれている仏教書と言われています。
しかし、他力信心(真実信心)と、親鸞聖人の教えを、よく理解している人が読まないと、とんでもない読み間違いをするところが多いので、今日、学者でも誤解し、誤った教えが常識のように言われています。
『歎異抄』の内容を正しく理解するには、あくまで親鸞聖人の主著である『教行信証』によらなければなりません。
そこで親鸞会では、有名な『歎異抄』を親鸞聖人のお言葉を物差しとして、正しく理解するための座談会を設け、それをインターネット回線を利用して、全国で多くの方が座談会に参加しておられます。
親鸞会.NETには、機関誌に掲載された『歎異抄』解説書の比較対照の内容が載っています。
ここにその内容を簡単に紹介したいと思います。 詳しくは、リンクを通じて親鸞会.NETをご覧ください。


第1回:「ただ念仏して」の誤解を正す|親鸞会.NET

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』2章)

この「ただ」の誤解が甚だしい。
ここを「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「親鸞聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多いのです。
山崎龍明氏の『歎異抄』解説を引用し、いかに誤解されている箇所か、親鸞会.NETで解説しています。
ここを誤解すれば、親鸞聖人の教えを全部誤解することになります。 親鸞聖人が直に筆をもって書かれたお言葉で正確に理解しましょう。

>> 「ただ念仏して」の誤解を正す


第2回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 (『歎異抄』2章)

『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「阿弥陀仏の本願が、まことであるとするならば」と理解する人が意外に多くあります。親鸞会.NETで、この一文の誤解を取り上げ、山崎龍明氏や佐藤正英氏などの『歎異抄』解説を引用して、その誤りを正しています。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解を正す


第3回:「急ぎ仏になりて」の誤解を正す|親鸞会.NET

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 (中略) しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき (『歎異抄』4章)

『歎異抄』のこの「急ぎ仏になりて」を「死に急ぐ」ことだと解釈する学者が少なくありません。 もし「浄土の慈悲」が、急いで仏になって衆生済度することであれば、仏になるのは死んで阿弥陀仏の浄土へ往ってからですから、早く死ななければ 「浄土の慈悲」はかなわないことになります。
親鸞聖人は、どのような御心でこのようなことをおっしゃったのでしょうか。正しい意味を親鸞会.NETで解説しています。

>> 「急ぎ仏になりて」の誤解を正す


第4回:歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」 (『歎異抄』1章)

真宗大谷派 (京都・東本願寺)の研究交流施設である親鸞仏教センターの出した『歎異抄』一章冒頭の解説に、 「人間の思慮を超えた阿弥陀仏の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して…」 とありました。
「往生をばとぐる」を「新しい生活を獲得できる」と解釈されているのですが、一体、「新しい生活」とはどんな“生活”なのでしょうか?
「往生」の正しい意味を理解されているのか疑問に思うところです。

>> 歎異抄第1章の「往生」は「新しい生活」のこと?


第5回:「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す|親鸞会.NET

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」 (『歎異抄』一章)

この一文にある「ただ信心を要とす」は一般にどのように解釈されているのでしょうか?

・阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。
・ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
・如来の本願に目覚めるこころ

など、解釈はバラバラで、意味もよくわかりません。 親鸞聖人のお言葉によって、この『歎異抄』第1章の意味は明らかになります。
親鸞会.NETで詳しく解説しています。

>> 「ただ信心を要とす」の「信心」の誤解を正す


第6回:「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落|親鸞会.NET

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)


「本願を信ぜんには」を、弥陀の本願を信じるには、と解釈する学者が多い。そのため、「他の善も要にあらず」をもって「善をする必要はない」という者までいる始末です。これでは、仏教を破壊することになります。
「本願を信ぜんには」とは、どのような意味なのか、親鸞会ではハッキリとお伝えしています。詳しくは、親鸞会.NETに詳しく書かれてあります。

>> 「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落


第7回:なぜ東大教授も誤読したのか|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第一章)


かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。
氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。
親鸞聖人の教えは漢字4字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。教授のみならず、多くの学者が誤読しているところでもあります。
親鸞会.NETで比較対照してみましょう。

>> なぜ東大教授も誤読したのか


第8回:『歎異抄』と二種深信|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第1章)


第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。
しかし、ここで親鸞聖人のおっしゃる「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なります。
親鸞聖人の信心は、「二種深信」です。二種深信とは、正確には機法二種一具の深信ということで、「機」と「法」の二つのことが同時に、疑いなくハッキリ知らされたことをいいます。
詳しくは親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』と二種深信


第9回:霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


『歎異抄』第1章の「摂取不捨の利益」とは、どんな意味なのか、他の『歎異抄』解説本と比較しながら、親鸞聖人の明らかにされた人生の目的について、親鸞会.NETで知ることができます。

>> 霧に包まれる「摂取不捨の利益」を親鸞会は明らかにする


第10回:弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異抄』第7章)


真宗大谷派(東本願寺)が、「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全10巻を刊行することになり、第1回として『親鸞の説法─「歎異抄」の世界』が発売されました。
そこに解説されている内容で、果たして『歎異抄』の真意が分かるのか、他の『歎異抄』解説本も引用しながら比較対照しています。
詳しくは、親鸞会.NETをごらんください。

>> 弥陀の救い「無碍の一道」を親鸞会は明らかにする


第11回:弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからない「時尅の極促」と説かれています。「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」なのです。「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされています。その「一念」ということについて、世の中の『歎異抄』解説本では、まったくふれられていません。親鸞会は常に、親鸞聖人の明らかにされた弥陀の一念の救いをハッキリとお伝えしています。

>> 弥陀の救いは平生の一念であることを親鸞会は明らかにする


第12回:『歎異抄』解説本を比較する意義|親鸞会.NET

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)


「決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい」との親鸞聖人のお言葉です。弥陀の救いは信心一つか、念仏か、について山崎龍明氏の解説本と比較したいと思います。

>> 『歎異抄』解説本を比較する意義


第13回:「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意を親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』2章)


『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と解釈する人が多くあります。
しかし、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします親鸞聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、親鸞聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
親鸞会.NETで詳しく解説を読んでみましょう。

>> 「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意とは


第14回:親鸞聖人の教えは「二益法門」であることを親鸞会は明らかにする|親鸞会.NET

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
(『歎異抄』第1章)


「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。この現当二益について、親鸞会.NETで詳しく知ることができます。

>> 親鸞聖人の教えは「二益法門」


第15回:『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会|親鸞会.NET

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
(『歎異抄』第9章)


ここは、実に多くの誤解された解釈がなされているところです。
唯円は2つのことを親鸞聖人にお尋ねしています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことの2つです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』も、石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』でも、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。本当にそうでしょうか?

佐藤正英著『歎異抄論註』では、親鸞聖人が本願どおりにならないことを嘆いた言葉だと解釈しています。これまたとんでもない解釈です。親鸞聖人の『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人の書かれた『教行信証』によらなければなりません。『教行信証』の親鸞聖人のお言葉を物差しとして、親鸞会では、この『歎異抄』の真意を明らかにしています。詳しくは、親鸞会.NETをご覧ください。

>> 『歎異抄』第9章に表れる懺悔と歓喜を明らかにする親鸞会


第16回:「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET

念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第2章)


この文章を、梅原猛氏の『誤解された歎異抄』では、
「念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります」
と解釈されています。

「総じてもって存知せざるなり」と『歎異抄』第2章にあるのを、文字どおり「全く知らない」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する人が多いのです。

同じ『歎異抄』の中に、親鸞聖人が、
「念仏のみぞまことにておわします」
とおっしゃっています。そんな矛盾したことを親鸞聖人がおっしゃるはずがありません。これは一体、どういうことなのか、親鸞会は、親鸞聖人の書かれたお言葉を物差しとして「総じてもって存知せざるなり」の真意を明らかにしています。

>> 「全く知らぬ」とおっしゃった親鸞聖人の真意とは|親鸞会.NET


第17回:「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉|親鸞会.NET

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(『歎異抄』第5章)


今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」です。「追善供養」を否定された親鸞聖人の『歎異抄』第5章は、日本仏教の全否定といえるでしょう。阿弥陀仏から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡くなった人に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でした。

世の中では葬式や法事、読経には功徳があると言って、現世や来世の幸福を祈祷します。しかし、どれだけ盛大な儀式をしても、念仏を称えても、亡くなった人は生前の自分の業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできないのです。親鸞会.NETで、ハッキリと知ることができます。

>> 「追善供養」の迷信を破られた親鸞聖人のお言葉


第18回:鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨|親鸞会.NET

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
(『歎異抄』第2章)


鬼気迫る対峙が書かれてある章ですが、そのように解説している『歎異抄』解説本は、無いに等しいと言えるでしょう。殺気さえ覚えるほどの激しい親鸞聖人のお言葉が書かれてあるのが『歎異抄』第2章です。
それがどのように表れているのか、親鸞会.NETで明らかにされています。

>> 鬼気迫る対峙 親鸞聖人の慈誨


第19回:「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明|親鸞会.NET

善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ
(『歎異抄』後序)


私たちは、自分が正しいと思うことは「善」、正しくないと思えば「悪」と判断し、しかもその判断は正確だという大前提で生きています。ですから納得できることは実行しますが、納得できないと素直に従えません。善悪の判断が誤りなくできるなら、そもそも教えを聞く必要はありません。自力の強情我慢で「善悪は分かっている」「正しい判断力がある」とうぬぼれ、仏智を計らっている間は、阿弥陀仏の本願は聞けません。
「一切の自力の計らいを捨てよ」
親鸞聖人の重大なご教示が、『歎異抄をひらく』で鮮明にされています。詳しい解説は、親鸞会.NETでご覧ください。

>> 「善も悪も全く知らぬ」親鸞聖人の他力信心の表明



最も多くの人に読まれている仏教書『歎異抄』を正確に読むには、あくまで親鸞聖人が直接、筆を執って書かれた『教行信証』によらなければなりません。親鸞会は、常に親鸞聖人のお言葉を提示し、その意味を丁寧に解説することによって、親鸞聖人の本当のみ教えを明らかにしています。

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  1. 2011年 8月 5日
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